・障害を抱えながら働くイメージができない
・障害年金以外の収入源を作りたい
・親が亡くなったあとの生活が不安
収入や仕事について悩んでいる障害者の方は、少なくありません。
特に妻子持ちのお父さんが事故や病気で障害を負い、今までのように働けなくなると世帯収入は大きく減少します。
障害者の働き方や収入をアップさせる情報は、ネットで検索してもほとんど見受けられません。
そこでこの記事では、大学生のときにアメフトの事故で重度身体障害者になった僕が年収1000万円を達成するまでの過程をすべて公開します。
障害者の働き方のいち事例として参考にしてください。
19歳のときアメフトの事故で車椅子ユーザーになる
僕は生まれつき障害があったわけではありません。
大学1年生の時にアメフトの事故で首を骨折したことで、手足に麻痺が残り車椅子ユーザーになりました。
その後、2年半のリハビリ生活を経て車椅子ユーザーとして大学に復学します。
学生の時に障害を負ったので、健常者のときに会社で働いた経験がありません。
つまり、僕の就職活動は、障害というハンデを抱えながらスタートすることになります。
それでも現在は、4年間勤めていた大学を退職し、個人事業主として働きながら妻と息子と3人で生活しています。
僕は障害者としてゼロからスタートして、経済的に自立するまでのプロセスをすべて経験しました。
大学〜独立までの過程を公開
ここからは、以下の年代ごとにどのようなことをして、収入を得ていたかをご紹介します。
大学生編
大学院修士課程編
大学院博士課程編
大学教員編
大学教員+個人事業主編
独立後編
大学生編
僕は大学に復学してからの4年間は、アルバイトをまったくしていません。
正確に言うと、車椅子ユーザーができるアルバイトはありませんでした。
でも大学生のときに稼いだ経験がないわけではありません。
何をして稼いだのか。
それは講演活動です。
きっかけは、小学校教員をしていたアメフト部OBから「ウチの学校で障害をテーマに講演をしてくれないか」とお願いされたことでした。
当時は人前で長時間話しをするという経験がほとんどなかったので、正直引き受けることに抵抗がありました。
ただ当時の体育会系の世界では、先輩からの依頼に対する答えは「はい」か「Yes」の2択しかありません。笑
そのため嫌々ながら首を縦に振りました。
はじめての講演は、緊張のあまりどんなことを話したかほとんど記憶がありません。
唯一覚えているのは、講演後に「講師料」をもらったことです。
「講演をしてお金をいただけるんだ」という事実にびっくりしたことを今でも覚えています。
ちなみにこのときの講師料は5,000円でした。
僕が障害を負ってからはじめて稼いだ経験です。
この講演をきっかけに、教員をしていたアメフト部の先輩方から講演を依頼されるようになり、大学4年間で約20回の講演を経験しました。
大学院修士課程編
大学卒業後は、スポーツ心理学の研究をするために大阪体育大学の大学院に進学しました。
大学院では研究活動をしつつ、ティーチングアシスタントといって、指導教員の授業をサポートするというアルバイトを週1回していました。
また不定期ですが、講演会活動も継続していました。
この頃から、講演の対象者が少し変化します。
大学生のときは、中学校や高校で講演することが多かったものの、大学院生になってからは教育機関以外からの講演依頼が増えました。
具体的には、生命保険の営業マン向けの研修会や自治体主催の講演会などです。
このときに知ったことは、教育機関と企業で講師料が違うということです。
たとえば公立の中学校で講演をすると、講師料の相場は1万円です。
多くても3万円ですね。
一方で企業の場合「講師料は5万円で足りますか?」と聞かれることもありました。
このように、同じ話をしたとしても依頼元によって対価が変わることを学びました。
ただ当時は講演活動でお金を稼ぐという意識はまったくなく、自分の経験を話すことで人の役に立てる喜びの方が大きかったと思います。
それでも多くの方から講演を依頼され、修士課程の2年間で30回は講演をしました。
おそらく2年間の講師料の合計は50万円ほどだったと思います。
大学院博士課程編
修士課程修了後はそのまま博士課程に進学し、研究活動を継続しました。
そして博士課程在籍中に給与をもらうという経験をします。
(正確には給与ではなく奨励金)
そのきっかけは博士課程2年目に日本学術振興会の特別研究員に採用されたことです。
日本学術振興会とは文部科学省所管の独立行政法人です。
この研究員を簡単に説明すると、大学院生をしながら毎月20万円の奨励金と年間約100万円の研究費が支給されます。
ようは研究に集中できるように国が金銭的なサポートをしますよという制度ですね。
この制度のおかげで、特に生活環境を変えることなく、安定収入を得ることができました。
ちなみに身体障害者の障害者雇用の平均手取り額が21万円なので、ほぼ同等の収入を得ていたことになります。
このときに学んだのは、専門的なスキルや実績など何か突出したものがあれば、障害があっても収入を得ることができるということです。
日本学術振興会特別研究員の採用率は約18%と狭き門です。
ここだけの話ですが、僕自身はこの研究員に採用されるとは夢にも思っていませんでした。
なぜ採用されたのかを知り合いの大学教員に聞いたところ、目新しい研究テーマを扱っていたことに加え、修士課程のときに学術雑誌に論文が掲載されたことが大きな要因ではないかということでした。
もし論文が掲載された実績がなければ、採用されるのは無理だったと思います。
逆に、実績や専門的なスキルがあれば、障害があっても必要とされる人材になれる可能性があるということです。
そして同じ立場の人の中では、比較的高い収入を得ることになります。
大学院生が研究活動をしながら月20万円を稼ぐのは正直厳しいでしょう。
この考えは、企業の障害者雇用でも当てはまるのではないでしょうか?
「障害があってもできる仕事」はできる方が多いため収入が安くなりがちです。
一方で、プログラミングやwebデザインのような専門的な知識やスキルがあれば、障害者雇用枠でも高い収入を得ることは不可能ではありません。
障害があっても高収入を得るためには、専門的なスキルを身につけることが必須となります。
また博士課程1年生の時にYouTubeチャンネルの運営を始めました。
えーっと、完全に趣味です。笑
もともとカメラが好きだったので、なんか面白そうだなぁと思いはじめました。
今では事業としてYouTubeをはじめることは一般的になりましたが、実は当時はまだ広告収益の仕組みすらありませんでした。
つまりYouTubeで稼ぐみたいな考えは一切なく、車椅子ユーザーの役に立てればいいなくらいの気持ちで始めたのが本音です。
ただチャンネル開設の数年後にこの趣味が、ビジネスになったことを考えると、行動することは大切だなと感じています。
大学教員編
博士課程2年目のときに、神戸学院大学心理学部から障害者雇用枠で専任講師の募集がありました。
現在、大学教員になる道はかなり狭き門です。
博士号を取得しても大学教員のポストが空いておらず、就職先がないという状況は珍しくありません。
そのような中で、障害者手帳の所持者であることが応募の必須条件という夢のような求人が舞い込んできたのです。
まさか障害を持っていることが就職活動のプラスになるとは思ってもいませんでした。
博士課程をあと1年残しているという状況でしたが、博士課程に在籍しながら働いて構わないということで、即応募しました。
そして無事に内定をもらい大学教員として働くことになります。
神戸学院大学の専任講師の給与は、年俸制で年間480万円です。
年俸額を12で割った金額が毎月給与として振り込まれます。
つまり月収40万円ですね。
そして、40万円から所得税や社会保険料を引いた額に、各手当(通勤手当、住宅手当、扶養手当)を加えた金額が毎月振り込まれます。
手取りで約36万円でした。
ただボーナスはないので、年収ベースで考えると一般企業に勤める同世代の社会人より少し高い収入というイメージですね。
一人暮らしであれば、毎月貯蓄できるくらいの生活を送れます。
障害者雇用で、これだけの好条件の求人はなかなかないと思います。
ただ就職1年目の僕は、危機感を感じていました。
なぜなら契約期間の5年間は、昇給がまったくないという条件だったから。
つまり5年間は給与が全く上がらず、しかも6年目以降も採用されるという保証がありませんでした。
実は就職と同時に、当時付き合っていた妻と結婚しました。
いずれは子どもを授かりたいと考えていたので、将来は間違いなく支出が増えるなと予想していました。
もちろん共働きをすることで世帯収入を増やすことはできますが、不妊治療や子育てのことを考えると妻がすぐに働くことは難しい状況でした。
どうやったら収入を増やせるんだろう?
いろいろと調べた結果、選択肢は2つありました。
①大学の専任教員に採用される
②副業をして、収入源を増やす
①大学の専任教員に採用される
大学教員の雇用形態には、
- 採用任期あり
- 採用任期なし
の2種類があります。
採用任期なしの採用はボーナスがあるため年収が増えます。
しかし、採用任期なしはポストが空かないとそもそも募集が出ません。
つまり他の先生が退職あるいは転勤されない限りはスタートラインに立てないということになります。
②副業をして、収入源を増やす
結論、僕が収入を増やすために選んだ道はこちらです。
本業以外に副業で新しい収入源をつくるということです。
ただこれまで自分で事業を作るという経験がなかったので、正直何から始めたらよいか分かりませんでした。
そこでネットで「副業」と検索するとYouTubeで変なライオンが出てきたのです。
それが「両学長 リベラルアーツ大学」です。
今ではチャンネル登録者数210万人を超える有名なチャンネルですが、当時はチャンネルを開設して半年も経っていない時期でした。
たしかチャンネル登録者数は5000人くらいだったと思います。
はじめは、マッチョライオンがお金のことを解説している怪しいチャンネルだなと思っていました。笑
でも解説している内容の納得度が高く、すべての動画を見て副業について勉強しました。
リベ大の動画を視聴し事業で致命傷を負わないためには
・初期費用をかけずに小さく始めること
・固定費(家賃や人件費)をかけないこと
が重要だと学びました。
そこで僕が選んだ副業が、YouTubeと講演会です。
理由は以下の2つ。
・経費がかからない
・どちらもすでに始めていた
※このときのチャンネル登録者数は7000人
それからは大学教員をしながら、YouTubeと講演会を積極的に取り組みました。
当時は平日は3時間、休日は5時間ほど副業をしていたと思います。
基本休みなしで空いた時間はすべて副業に当てました。
ただ学生のときから部活で365日休みのない生活を送っていたので、特に辛いと感じたことはありませんでした。
そして副業をはじめて約半年が経った頃、YouTubeで月5万円を稼げるようになりました。
約半年と言いましたが、チャンネル開設から計算すると2年半かかっています。
また講演会は不定期ですが月1本ペースで依頼を受けていました。
そのため副業を始めて半年ほどで、月10万円ほどの収入を得られるようになりました。
そして本業である大学教員としての実績とYouTubeでの発信力がかけ合わさり、様々な仕事の依頼が来るようになります。
・記事の執筆
・テレビ出演
・プロモーションビデオの出演
・YouTubeでの企業案件
・イベントの実行委員会の役員
・YouTube運営のコンサルティング
この頃に本業の給与と副業の収入を合わせると、年収1200万円ほどでした。
2021年には半年間継続して副業の収入が本業を上回るようになり、このときに大学の退職を考えるようになりました。
退職を考えるようになった理由は、リハビリの時間を確保できなくなっていたからです。
大学教員の仕事は年数を重ねるにつれて任されることが増えるようになり年々忙しくなっていました。
その上でYouTubeの撮影・編集や記事の執筆をしようと思うと、自由な時間を削る必要があります。
その結果、リハビリに取り組む時間が短くなっていたのです。
障害を負ってからの僕の夢は「もう一度、自分の足で立って歩くこと」です。
そのために10年以上リハビリを継続してきました。
ただ物理的に時間が足りなくなっていたこともあり、悩みに悩んだ結果、2021年度いっぱいで神戸学院大学を退職する決意をします。
独立編
2022年に大学を退職し、現在は主に自宅で仕事をしています。
現在、収入のある仕事はこちらです。
・YouTube運営
・オンラインサロン運営
・SNSマーケティングのコンサルティング
・団体の理事
・講演会
・研修会やセミナーの講師業
・コーチング
・大学の非常勤講師
ご覧の通り、大学の講師が完全に副業化していますね。
大学を退職しましたが、授業をすること自体は好きなので今後も非常勤講師は継続するつもりです。
ちなみに現在は、月収60〜100万円ほどです。
月の変動はあるものの、家族3人で生活するのには十分な収入ですね。
独立して良かったことは
・幼い子どもと一緒に過ごせる時間が長くなった
・通勤の時間がなくなった
・リハビリの時間を取れるようになった
特に通勤がなくなったことで心身の負担がかなり減りました。
大学に勤めていたときは、通勤が大変とは感じていなかったのですが、自覚がなかっただけなんでしょうね。
最後に補足です。
この話を聞いて、自分も会社を辞めようと思った人もいると思います。
ただフリーランスという働き方は、収入面でかなり不安定になります。
病気や怪我で働けなくなった場合、会社員であれば傷病手当などの補償がありますが、個人事業主には基本ありません。
(所得補償保険に加入している場合は別です)
そのため会社を辞めて個人で仕事をする場合は、以下の条件を満たしていた方が良いです。
・働けなくなっても1年間は生活できるくらいの貯蓄がある
・すでに事業で20万円以上の収入がある
ハードルが高いと感じるかもしれませんが、このくらいの基準でちょうどいいくらいです。
この基準を満たしていない場合は、会社員+副業という働き方をおすすめします。
行動することがすべての出発点
今回は、大学時代から現在に至るまでの僕の仕事についてご紹介しました。
この記事ではうまくいっている話が多いのですが、実際はこの何倍もの失敗を経験しています。
でもそれらの失敗があったからこそ、今の自分の生活があるといっても過言ではありません。
唯一自分を褒めるなら「たくさん行動してきた」ことかなと思います。
車椅子生活になってからも、興味のあることはなんでも挑戦してきました。
その行動力が今の生活に繋がっています。
たくさん打席に立ってバットを振り続けていれば、少しずつ成長していつかはボールが当たるようになりますよ。
障害があるからと諦めずに、一歩を踏み出してみてください。
では、最後まで読んでいただきありがとうございました。